Dの都、Dのエデン、Dのユートピア、Dの道はやよい軒に繋がる、Dはやよい軒である。
「なんで、やよい軒のことそんなに好きなの?」
ある日、こんな寝ている間に耳に水鉄砲で食らったかのような質問を受けた。かぴちゃんの腹もスタンドアップである。
指についたポテチの塩は美味いくらい、至極当たり前だのクラッカーではないか?
だが、思慮深い我がDのCPUが1つの仮説を唱えた。
「もしかして、こいつDじゃない?」
盲点であった。
Dの視界には、あまりDが映らないのだ。Dとは相対的な進化の最終形態である上位生物のみに与えられる称号であるゆえ、殆どの人類はDにはなれないのだ。
「つまりこいつは・・・Dではない」
これは失敬。ただちに、かぴちゃんの腹もシッダウンだ。
本題である。
なにゆえに、やよい軒がDの都でありエデンでありユートピアなのか?深く考えてみよう。
やよい軒を楽しむために必要な心の準備はおわかりだろうか?
おわかりだろう!
そう、おかわりだ。
おかわりにはじまり、おかわりで終わる。
大切なことはおかわりである。もう一度言おう。おかわりだ。
つまり、おかわりができなくなった瞬間、やよい軒はやよい軒でなくなりやよい軒という概念はやよい軒と株式会社プレナスとDの怨念とともに封印されることを、まずは宣言しておく。
4.16の悲劇を繰り返さないよう心から応援している。(2019年4月16日に、ごはんおかわり無料を廃止する鬼畜の所業を実施た悪夢の日)
では、おかわりをどう楽しむのか。
まずは店員さん側の配慮である。
一膳目は初期設定であるため、二膳目から、本当のおかわりが始まるのだ。つまり、一膳目のご飯の量がファーストチェックポイントだ。
「お店側の規定の量で、配膳されてるんじゃないの?」
そんな野暮な考えを言うやつは、やよい軒のテーブルの傍らにおいてあるドレッシングでも舐めて炎上してしまえ。
もし、目の間にお腹を空かせたガリガリの子供がいたらどうするだろうか?
腹が減ってるからステーキを食べさせるのか?
違う。
まずはガリガリの飢餓状態ならば、胃の負担を考慮しておかゆを選択するだろう。
そいうことだ。
Dはおかわりをしにきている、いやおかわりを食べに来ているのだ。
いかに気持ちよくおかわりが出来るかが、やよい軒の質を左右するのだ。
一膳目の御飯の量をDが来たからと言って、多めに配膳してしまうようでは、やよい軒の風上におけぬ鬼畜の所業である。だがしかし、安心してほしい。過去に一度もモリモリ配膳してきやよい軒は存在しない。
「だから、お店側の規定の量で、配膳されてるんじゃないの?」
もうお前は理由なく炎上していれば良い。
つまり、同じやよい軒でもやよい軒の数だけ違うやよい軒が存在することを心に留めておいて頂きたい。
他にもテーブルのポジショニング、ドレッシングと米とのアンサンブル、メインのおかずとご飯の共同戦線、ご飯と味噌汁の親和性を否定するマジョリティとの関係など語ることは多くあるが、今日はここまでにしておこう。